桜の日々(仮)

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たしかに自由は素晴らしいけれど……(『カラー・オブ・ハート』感想文)

とある高校に通う双子の兄妹、デイビッド(トビー・マグワイア)とジェニファー(リース・ウィザースプーン)。恋と化粧に忙しく、自分大好きなカラっぽで空虚なイマドキ娘のジェニファーとは対照的に、デイビッドは50年代の白黒テレビドラマ『プレザントヴィル』に夢中のオタク気質。ある夜、テレビの取り合いになった2人は、その拍子にリモコンを壊してしまう。するとそこへ、タイミングよく修理工の老人(ドン・ノッツ)がやって来て、2人に不思議なリモコンを手渡した。修理工が帰った後に新しいリモコンでテレビをつけると、2人はテレビドラマの『プレザントヴィル』の世界に入り込んでしまう。

 
 毎度のことながら、あらすじを書くのが面倒くさいので引用で済ましてしまう。 *1

 
「恋と化粧に忙しく、自分大好きなカラっぽで空虚なイマドキ娘のジェニファーとは対照的に、デイビッドは50年代の白黒テレビドラマ『プレザントヴィル』に夢中のオタク気質」とはまさにそのとおりだが、この二人のキャラクター造形にはかなりステレオタイプなところがあるな、と感じた。1998年公開のヒット作なので、むしろ「ステレオタイプの形成、流通に大いに貢献したことだろう」というべきかもしれない。「『プレザントヴィル』の世界に入り込んでしまう」までには、このような二人の紹介の他に、(現実の)社会をとりまく閉塞感が軽く取り上げられている。「あなた達が大学へ進学するころには、就職難がより酷くなっていることでしょう」という教師の言葉には、世紀末はそのような雰囲気だったのか、と妙に納得してしまった。また、二人には父親がおらず、母親はどうやら若い男とのロマンスにハマっているようだが、このファクターはラストのちょっとしたエピソードへの布石である。

 
『プレザントヴィル』の世界には性欲が存在せず、揉め事がなく、火事のひとつも起こらない。誰もが安全で平和で愉快(“Pleasant”)な生活を送っていたが、ジェニファーが住人のひとりであるスキップ(ポール・ウォーカー)と性行為をしたことをきっかけに変化が起きてしまう。それは白黒だったバラの花が一輪だけ、印象的に赤く色づくところから始める。それから、他の住人達も彼女に影響されて性愛を謳歌するようになり、その進行度合いと同期して、白黒だった人や物が徐々にカラフルになっていくのだ。セリフ等で明示されてはいないが、住人の心が解放されると同時に、本人やその者に紐づいた所有物、風景が色彩を得る、という風な表現になっている。

 

部外者である自分たちがプレザントヴィルの世界に影響を与えていってしまうことを恐れたデイビッドは、はじめはジェニファーの行動を止めようとする。しかし、そのような「変化」に興味を持ち、好ましいものとして積極的に受け入れようとし始めた周囲のティーンネイジャーたちを見るにつれ、デイビッド自身も次第に周囲の人々にそれまでとは違った考え方や、やり方や、知識を広めはじめる。

 
 住人達がデイビッドとジェニファーの二人から学ぶのは性愛だけではない。『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだり、ロック・ミュージックで踊ったり、そういった(比較的新しい)文化的な楽しみも、彼らを通じて初めて知るのである。そして、デイビッドのバイト先の店主であるビル(ジェフ・ダニエルズ)が絵を描く喜びを見出したところで、この「文化的な解放」は最高潮を示す。

 

しかし、そのような変化を好まない人々もいた。保守的な考え方を持つプレザントヴィルの男性たちである。デイビッドとジェニファーがもちこんだ価値観は、平和で穏やかだったプレザントヴィルの町に、秩序やモラルの崩壊をもたらすのではないか、ひいては、それまで築いてきた自分たちの地位が脅かされるのではないかと恐れたのである。町は次第に、新しい価値観を好み、変化を受け入れようとする「カラーの」人々と、それまでの価値観を好み、変化を嫌う「白黒の」人々との間に深刻な対立を生んでいく・・・

 
 対立の末、「保守的な考え方を持つプレザントヴィルの男性たち」に捕らえられて裁判所の証言台に立ったデイビッドが、自由を讃える説得的なスピーチをして彼らを啓蒙することで、『プレザントヴィル』は完全にカラフルな世界へと変貌する。……本作はいかにもわかりやすい寓話だ。要するに、見せかけの安全や平和をもたらしているパターナリズムと進歩的な価値観としてのリベラルズムを対置して、後者の勝利によって個々人が抑圧から解放される様を描いているわけである。また、当時なりのフェミニズムの要素もふんだんに盛り込まれている。『プレザントヴィル』におけるデイビッド達の母親、ベティ(ジョアン・アレン)は良妻賢母の見本のような人物であったが、ジェニファーからの影響で初めて性的な喜びを知ったり、解放されてからは、それまでの完璧な家事を意志的に拒否したりする。妥当すべき保守派の人々が男性ばかりで、その中心となっている(町で実権を握っている)商工会がいわゆる「ボーイズクラブ」なところも、注目すべき点だろう。性行為や自慰行為が直接描かれている点を除けば、中高生が視聴覚室で観るのに相応しい、そんな種類の、進歩的な作品である。少なくとも、当時リベラリズムフェミニズムを称揚する人々にとって、本作はかなり魅力的だったのではないか。*2

 
 しかし私としては、次のとおり気になったことが何点かあり、そのため手放しで絶賛するわけにはいかないな、と感じざるを得なかった。

 

 まず、デイビッドは中盤から「周囲の人々にそれまでとは違った考え方や、やり方や、知識を広めはじめ」、終盤に至っては『プレザントヴィル』の世界の人々に最終的な説得を行うことによって、革命者のような役割を果たすのだが、あくまで初めは「部外者である自分たちがプレザントヴィルの世界に影響を与えていってしまうことを恐れ」、その世界に性愛を持ち込もうとする「ジェニファーの行動を止めようと」としていた、つまり保守的な価値観の側に立っていたのである。経験を通じて正反対の考え方へと転向したわけだが、その際の心境の変化がじゅうぶん描かれているとはいえなかった。周囲の人々の反応や自身の性愛に感化されてなんとなく、という描かれ方だったので、どうにも物足りない。大義を持たせよ、というようなカタ苦しいことはいわないが、少しくらいは社会に対する省察や革命への自覚および逡巡があってもよかったのではないか。

『プレザントヴィル』において彼が色を獲得する(=心を解放する)に至った出来事が、暴漢から母親を守ることであったのにも疑問符がつく。「オタク気質」の青年が初めて自身の勇気に気づく、ということのアレゴリーなんだろうけれど、それが他者を殴るという表現だったのは倫理的にどうなのか。2021年の人間からすると、「有害な男らしさ」を持ち出して批判したくなった。

 

 また、そもそもデイビッドとジェニファーが来るまで、『プレザントヴィル』は揉め事が存在しない世界なので、おそらく暴力装置がないことが了解される(実際、私が忘れているのでなければ警察官は一人も登場しない。消防署はあるが、木に登った猫の救出が主な仕事で、初めて火事が起きた際、消火ホースの使い方をデイビッドに教えてもらう始末、という極めて牧歌的な世界である)。よって「「白黒の」人々」への抵抗が、ハードルのない、お気楽なものに見えるのである。「「カラーの」人々」が集って「禁止音楽」に指定されたロック・ミュージックを密かに楽しむという、「革命もの」の映画にありがちなシーンもどこかママゴトのように映るし、デイビッドは裁判で保守派を説得できたけれど、「もし出来なかったらどんな酷い目に遭うのか」が想像できず、ずいぶん都合が良いなと感じてしまった。

 

 リベラリズムにまつわるジレンマが一切描かれていないのにもご都合主義を強く感じた。特に、『プレザントヴィル』の住人がそれに感化されるきっかけとなったのが性愛(というか性行為)なのだから、彼らの内部でも衝突の一つや二つ生じるのが自然なのではないか。性的な喜びを知り、家庭から解放されたベティはビルと不倫をしてしまうのだが、彼女達が良心の呵責をこれぽっちも感じていないようであったのには、これまた倫理的な観点から苦笑せざるを得なかった。私は『ボヴァリー夫人』『心変わり』をはじめとした「不倫もの」の創作が好きなのだが、その理由としては、不倫があくまで後ろ暗いものとして描かれており、主人公達が苦悩し、倫理的な観点からの指弾を受け、それでも不倫をする(あるいはしない)という個人の理性と情動の綱引きを深く感じ入ることが出来るからである。後ろ暗さのない不倫はもはや不倫とさえいえない、というのが私の信条だ。*3

 
 先に述べたように、デイビッドは『プレザントヴィル』において性愛を知り、進歩的な価値観を内面化するというある種の成長を遂げるのだが、彼が元の世界に戻ってから、その成果がじゅうぶん発揮されていたともいえない。ラストは、子どもがいながら若い男とのロマンスにハマっていることに関して「私は普通じゃないよね」と悩んでいる(現実の)母親を、彼が「普通は人それぞれだよ」と慰めたところで幕が下りるのである。まあこれはこれで良い話ではあるけれど、映画の構成からして、少しばかり「裏切られた」と感じざるを得なかった。冒頭で、彼の冴えない「オタク青年」ぶりが示され、どことなく閉塞的な時代性が語られる場はハイスクールなのだから、私としては、彼がもう一度そこに戻って、『プレザントヴィル』で得たものによってそれらを打破してくれるだろう、と期待していたのだが。また、ジェニファーは『プレザントヴィル』の世界において生まれて初めて本を読み通し、学びの楽しみを知るのだが(これはこれで「色恋ばかりの軽薄な娘は知に目を開かれるべきだ」という、インテリゲンチャ目線の押しつけがましさを感じる)、なんとそのまま大学に通ってしまい、元の世界に戻ってこないのである。そもそも、本作において現実は全く重要視されていなかったのだろうか。

 
 そして、1998年の映画とはいえ、有色人種が一切出てこないのは当時問題にならなかったのだろうか、という疑問がある。「「白黒の」人々」が書いた“No coloreds”というメッセージ、これは直接的に黒人差別を想起させる言葉であり、このメッセージがどう扱われていたを見れば、その不当さをはっきりと示していることが了解できる。けれども、そうでありながら役者は白人のみという事実は、メタ的に見ると有色人種の排除そのものであって、リベラリズムを称揚する作品としては致命的ではないだろうか。言説はあれど実践はなし、という態度は、被差別当事者からすれば欺瞞に見えやしないか、と感じてしまった。

 

 ウダウダとネガティブなことばかり書いてしまったが、要するに、「パターナリズムを打破してリベラルな価値観を広めていくことは素晴らしい」というメッセージをわかりやすく伝えようとする意図ばかり先行してしまっているために、構成的な面においても、テーマ性の掘り下げにおいても、取りこぼしているものが多すぎた、というのが私なりの批判だ。とはいえ、私自身このメッセージ自体には素直に同意できるし、もっと若い頃に鑑賞していれば、目を輝かせて絶賛していたかもしれない。2021年に生きる青年として、旧弊な価値観の有害さについては既にじゅうぶん理解しており、リベラリズムフェミニズムを(主にネットから)当たり前のように摂取できているが故に、このような不満を述べることが出来たのだろう。

 

 なお蛇足ではあるけれど、私が本作を鑑賞するに至ったきっかけも書いておく。それは主題歌であるFiona Appleの『Across The Universe』YouTubeで知り、魅了させられたことだ。MV(本作のとあるシーンのパロディとなっている)も含めて素晴らしく、特にFiona Appleの超然とした表情は、作中の言葉を借りれば“Cool”そのものなので、是非観てほしい。

 

カラー・オブ・ハート [Blu-ray]

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  • 発売日: 2011/04/21
  • メディア: Blu-ray
 

 

 

*1:今回は日本語版Wikipediaから。以下引用はすべて同じ。

*2:様々なサイトで本作のレヴューを読んでみたが、どれもこの点を讃えていて、概ね高評価であった。

*3:ピアノ・レッスン』は(特に映像美が)素晴らしい作品だが、同様の理由から100点をつけることが出来ない。